脳が揺れた話

先日脳震盪を起こした。

その日は雨が降っていて階段が濡れていたし、その日に限って底が擦り切れてつるつるになったクロックスを履いていたからだと思う。彼氏さん(雨男)の住むアパートの階段を下りていたとき、足を滑らせ、私はその場で思いきりしりもちをついてしまった。幸いにも私のちょうど前を雨男が歩いていたので階段から転げ落ちるようなことはなかったが、お尻から落ちたときの激痛といったら、もう、「痛い」と発する余裕もなく、「あ゛がが」と声にならない声が出たほどである。雨男もそんな私を見て(おそらく見慣れている)、笑いをこらえきれない様子だった。

しかし、このあたりから足がふらつきはじめ、もう一段降りたところで私は再びしりもちをついた。今度は声も出なかった。手を引かれて立ち上がりなんとか階段の下まで降りたものの、視界がぐらついてアスファルトの上に座り込んでしまった。お尻を打っただけなのに、おかしいな、と思いながら、雨男のいったん部屋に戻って休むかという提案にうなずく。しかし立ち上がろうにも足に力が入らない。雨男の脇に抱えられ、階段の一段目に足をかけるのがやっとだった。この階段はこんなに一段一段が高いものだったかと遠のく意識の中で考えた。視界はテレビ画面の砂嵐のように途切れ途切れで、画面の端にときたまクロックスの黒いつま先が映り込んだ。そのつま先は、一歩ずつ、踏面を踏みしめて、階段をのぼって行く。それからは視界がほとんど真っ白に塗りつぶされ何もわからなくなった。もう少しだ、頑張れ、という雨男の声がどこか遠くから響いていた。

いきなり視界が開けたのは、救急車呼ぶぞ!という切羽詰まった声がした瞬間だった。そのとき私は玄関からワンルームの部屋に入ったところにいた。いたというかその場に膝をついていて、床が眼前に迫っている状況だった。慌てて手をついて立ち上がり、ふらつきながら傍のベッドに倒れこんだ。視界がクリアになると、同時に、耳の奥でジーッと蝉が鳴き出した。蝉が鳴いてる…とつぶやくと雨男は怪訝そうな顔をして大丈夫かよと言った。ちょっと休んでから帰る、ごめん、と答えて私は目を瞑った。走馬灯は見えなかった。まだ死ぬわけじゃないのか、と他人事のように思った。

しばらくすると耳の奥の蝉は鳴きやみどこかへ行ってしまった。(代わりに、思い出したようにお尻から激痛がやってきて、軽く2週間はその痛みに苦しんだ。車に乗ったり降りたりする動作って、結構お尻の筋肉(?)を使うんだなあ…と一日一回はつぶやいてた気がする。)その日の夕方、自宅に帰ってから病院に行き診察を受けたところ、話をきくに脳震盪ですね、吐き気もなくこれだけ普通に歩いて喋ってるので出血とかもないと思いますけどCT撮ります?あ、撮れって言ってるわけじゃないですよ、僕が貴方だったら撮りませんけどね、放射線を普段よりちょっと多く浴びるってことに抵抗があるならやめてもいいですし、親さんが心配なら(この時は母が心配してついて来ていた)撮りましょうか、と医師に言われ念のためCTを撮った。ああ~今月医療費かかる~しかも休日診療だから余計に金かかる〜~あああ~~~と嘆いていたら母に体のためだから撮りなさい!と言われてしまった。

撮影後は画像を見せてもらいながら出血もなく異常なしですという旨の説明を受けた。医師によると脳震盪を起こしてから8時間以内に体調に急な変化がなければよっぽど大丈夫です、ただ万一のこともあるので一晩様子は見てください、とのことだった。その日の夜は明日の朝目が覚めなかったらどうしよう葬式には誰が来てくれるだろうかと想像しながら眠りについた。

次の朝はすぐにやってきて、普段通り職場に行って仕事をした。運が悪かったら死んでたかもしれないのにいつもと変わらない一日を送っているのは変な感じだった。お尻の痛みはなかなかひかず、確かにあの休日はあったのだということを私に何度も思い出させた。せっかくなので一連の出来事を書き残しておこうと思う。